昔、東の五条に大后宮がいらっしゃった その西の対に住む人がいた。
その人を、本気ではないが、気持ちの深い人が行き訪ねたが、
(その人は)正月(旧暦一月)十日位の頃によそへ隠れてしまった。
(その人の)いる所は聞いたが、人が行き通う所でもなかったので、よけいにつらいと
思いながらいたのだった。
次の年の正月に、梅の花盛りに、
去年を恋しく思って、(西の対に)行って
立って見、座って見、見るけれども去年に似るはずもない。
少し泣いて、荒れ果てた板敷きに、月が傾く(沈みかける)まで横になって
去年を思い出して詠んだ。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして
(月はそうではないのか、春は昔の春ではないのか、
私の身一つだけは元のままであるのに)
と詠んで、夜がほのぼのと明けると、泣く泣く帰ったのだった。
「月やあらぬ」の歌は、昔から二つの解釈がある。それは、
助詞の「や」を疑問と取るか、反語と取るか、による。ここでは疑問で解釈している。
反語での解釈は、中国の漢詩文の影響による。年々歳々花相似たり、というわけだ。
高校で教える時には、一応両方の解釈を教えて、次のような話をする。
恋愛の最中に恋人と見る景色は、とても美しく見える。これはホルモン分泌と関係があるという。
恋人に振られてから、同じ所へ行って、同じ景色を見ても、以前のような感激はなく、
ただ広漠たる景色が広がるだけ。まるで違う場所のように見える。
・・・景色が変わってしまったのか、この春がいつもの春ではないのか。
・・・自分はあの時の自分と同じだ、中身は今も全然変わってはいない。なのに何故
風景はあの時のように輝かないのか・・・・・・。
個人的には昔彼氏と行った場所に未練たらしく行くのは嫌いだ。しかし、
運命は残酷で、別れて一年後、初めて勤めた学校がそちらに有っては仕方がない。
泣く泣く毎日、昔見て感動したはずの海を見ながら通勤した。
昔見た、昼の海の、六甲と淡路島の間を通って消えていく船、
そして、夜の海に浮かぶ、輝く豪華客船のような神戸の街、
あの景色はどこに行ってしまったのか、ここには無い、と思った。
だから、証明は難しいけれども、個人的には反語の訳は採らない。
「春は昔の春ではないのか、いや昔のままの春だ」、なんて。