芹川行幸

昔、仁和の帝(光孝天皇)が芹河に行幸なさったとき、

中途半端な年寄りが、今はそういうことが似つかわしくなく思われたが

以前ついていたことなので、大鷹の鷹飼いにお仕えさせなさった。

擦り狩衣のたもとに書きつけていた。

おきなさび人なとがめそかりごろも 今日ばかりとぞ鶴(たづ)も鳴くなる  

( 老人のようなのを人はとがめるな 狩衣は今日だけだと鶴も鳴いているよ  )

 

公(帝)の御機嫌が悪かった。(年寄りは)自分の年齢を思ったのだが、若くない人(帝)は自分のことだと思い込んだそうだ。

 

 


この段は、業平死後に実際にあった、仁和二年(886)十二月十四日の行幸の話である。

伊勢物語の写本によっては、勘物(かんもつ:写本に書き込まれた注)に、史書の引用があり

この日の天気は「風雪惨烈」だったそうだ。

後撰集で雑部一にあり、業平の兄・在原行平の歌となっている。

 

光孝天皇は、長い間だたの親王だった。

皇位継承は兄・文徳、兄の子・清和、兄の孫で清和の子・陽成と続いて、

およそ玉座に座ることはなさそうだったのに、突然お鉢が回ってきて、

光孝天皇は五十七才で天皇になった。

 

そこへ臣下が「翁さび」などと詠んだりしたら、どうなるか?

しかも極め付けに「狩衣今日ばかりとぞ(狩衣も今日だけだ)」だなんて、

タイミングが悪すぎる。

でも、こんなタイミングのわるい歌を何の気なしに詠んでしまう

行平の他意のない好々爺然とした様子がわかって、

少し可笑しい。

後撰集では、この後、行平は、致仕(退官)したとある。

致仕には中国で七十で退官したことから、七十才の意もあるそうだ。

 

2001年頃作成  2008年03月25日更新 伊勢物語  内田美由紀