昔、男が陸奥にあてもなく行き着いたのだった。そこにいる女が、京の人は珍しいと思ったのだろうか、
ひたすら思っている心がなぁあった(一心に思い詰めた)。
さて、あの女が
なかなかに恋にしなずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
――中途半端に恋に死なないのならば、蚕になってしまいたい。短い命のあいだだけでも――
歌でさえも、田舎っぽかったのだった。それでもやはり、いとしいと思ったのだろうか、行って寝たのだった。
(まだ)深夜に(男は)出て行ったので、女、
夜も明けばきつにはめなでくたかけの まだきに鳴きてせなをやりつる
――夜も明けたら、水槽(「狐」という説もある)にはめないでおくものか まだ明けていないのに鳴いて彼を行かせてしまった――
と言っていたが、男は「京へなぁ帰ります」と言って
栗原のあねはの松の人ならば 都のつとにいざといはましを
――栗原の姉歯(地名)の松が人だったならば 都の土産にさあ(いきましょう)、といったのにねえ――
伊勢物語 第十四段 2006年+2014年+2015年12月11日作成 内田美由紀
今は昔のことになるが(これを書いているのは2014年)、建築の世界で姉歯事件というのがあった。
偽装事件のはしりともいえる事件だったが、関西ではまったく見ない姓だったので非常に印象深く、
上(2006年作成部分)に「姉歯(地名)」と書いているのは、そのせいである。
宮城県栗原市金成姉歯に「姉歯の松」があるようだ。名所旧跡のたぐいは大体、昔の街道沿いに近くにある。
インターネットで検索すると、そこはそこでまた姉の墓等々の別の伝説があるようだ。
平泉の手前、一関の南、仙台より北。奥州街道沿い。
近くに糠塚遺跡(奈良〜平安時代の集落)や伊治城跡(栗原市築館字城生野)がある。
さらにいえば、宮城県栗原市公式ウェブサイトによると、「壇の松」という場所があり、
延暦年間に坂上田村麻呂将軍が物見の兵を置いたところとある。
伊治城では、宝亀11年(780)の伊治のあざまろの乱で紀広純・道嶋大楯が殺されている。
さて、というわけで、2015年7月に東北へ行った。栗原に行ってびっくり!
とてもいいところだった。タクシーの運転手さんは、「なんでわざわざこんなところまで(大阪から)?」とあきれていたが、
広い平原に美しい田んぼが広がり、高い山並みが向こうに連なり、目的地に向かうと小山が見える。
奈良に似ているなと思いつつ、違うことに気が付いた。
平原には家が一軒もない。「一軒も」は語弊があるかもしれないが、
奈良や兵庫県の田舎では
盆地や平野の中に、集落がまとまってあるかまたは家がぽつんぽつんと建っているものだが、
栗駒高原では、人家はJRの駅のまわりと、それ以外は木々に囲まれ高くなったところ、
つまり基本的には小山の中に家々があった。
遺跡もそうだった。小山の中にあるので、見渡しても木々や家にさえぎられて遠くの山が見えない。
というよりも、遺跡の標高がそこそこあって、平屋建ての家々の高さに遠くの山々が隠れてしまい、空が広かった。
川を渡るとき、小山の崖が結構切り立って高かったので、一度沈降して削られたように見えた。
そして、小山から平原に出ると、川が深くV字に掘り込まれて、細く流れている。
このあたりの土地は沈降後、また大きく隆起したのだろう(つまり水面が一度上がって山を削り、また下がったのだろう)、
小山からどーんと下がって低い2〜3段の河岸段丘があった。
その河岸段丘も、とても広いので、このV字の川はかなりの暴れ川だということになる。
小高い小山の中に家々があるのは、そのせいだったのか?と思って、運転手さんに
「このへんは水害が多いのですか?」と尋ねたが「いいや、そんなことはないよ」というお返事。
V字の川幅が狭い上、堤防も低いので、普段はあまり水量がないのだろう。
(2016年に行ったとき河原に降りようとしたら、ダムの放流注意とあった。水量を調整しているらしい)
さて、栗原で何にびっくりしたかというと、田んぼの美しさもさることながら、
その小高い小山の中に伊治城跡があり、その同じ小山の端が前九年の役の戦跡だったことだ。
そして川を渡った向こうの小山に泉と栗原の姉歯の集落があった。そしてその向こうにまた川がある。
これって!ここって!戦場の陣地じゃないですか!?(もう運転手さんに聞いてもむりかな?;歴史フリークの私・・・)
そのとき、タクシーの運転手さんが走った道は、東北のさらに北へ行く昔からの道だった。
二つの小山の中を突っ切って、直線的に抜けていくので、もともと官道だろう。
同じ場所が、時代を隔てて二度も戦場になるなんて!ここはただの名所旧跡じゃない!
というわけで、歴史フリークの炎が燃え上がった、旅になったのであった。(続く)