昔、西院の帝(淳和天皇)と申し上げたみかどがいらっしゃった。
その帝の皇女で、たかいこ(崇子)と申し上げた方がいらっしゃった。
その皇女がお亡くなりになって、ご葬儀の夜、その宮の隣に(住んで)いた男が
ご葬儀を見ようと思って、女用の牛車に(女と)相乗りして出かけたのだった。
とても長い間、出棺申し上げなかった。
ちょっと泣いて終わるはずだった間に、
天下の色好み(風流人)の源至(みなもとのいたる)という人が、この人も見物していたのだが、
この車を、女の車だと見て、寄ってきて、あれこれ言い寄っているうちに
あの至が、蛍を取って、女の車に入れたのを、
車にいた人(女)が、「この蛍のともす火で見えているのでは。火を消してしまいましょう」
と言って、乗っていた男が詠んだ歌、
いでていなばかぎりなるべみともしけち 年へぬるかとなくこゑをきけ
(そとへ出て行ってしまったならば今はこれで最後となるので入滅のお別れです。年を経たのかと泣く声を聞きなさい)
あの至が返歌して
いとあはれなくぞきこゆるともしけち きゆる物とも我はしらずな
(とてもしみじみ泣くのが聞こえる薨去だ 灯が消えるように 〔蛍も皇女も〕消える物とも私は知らなかったよ)
天下の風流人の歌としては、もうひとつであったことだ。
至は、(源)順(みなもとのしたごう)の祖父である。皇女の本意はない。
お葬式に行ったら、女車だと思われ言い寄られて蛍を入れられた。蛍の灯を消すというところから、
主人公は、「ともしけち」つまり入滅だから泣いている人々の悲しみを知りなさい、と蛍を入れた天下の色好みをたしなめる。
でも、なんだかしらばっくれているような感じがする源の至。
時代背景の知識なしでも読めるが、なぜ、出棺が遅れるほど周囲が泣いているのか、と考えると、
若干の歴史的知識は仕入れておいたほうがいいかもしれない。
西院の帝つまり淳和天皇は、政治的には微妙な位置にあった天皇で、いろいろ手は打ったようだが、
結果的にこの天皇の子孫は皇位につけなかった。
そもそも、桓武の長い治世の後、その皇子であった平城・嵯峨・淳和が順に皇位につき、
平城が薬子の変で失脚、嵯峨が全権を握り、次の淳和のときには嵯峨の皇子が皇太子になった(仁明)。
仁明天皇の時代になって、淳和上皇が承和七年(840)に亡くなり、嵯峨上皇が承和九年(842)に亡くなったとき、
業平の父で平城の皇子だった阿保親王が橘嘉智子(嵯峨后)へ密告したことによって、皇太子方の謀反計画が発覚し、
皇太子恒貞(淳和の皇子、嵯峨の孫; 母正子内親王)が廃された。
承和の変である。
阿保親王はその年のうちに亡くなった。
恒貞のかわりに立太子したのは、仁明の皇子で、のちの文徳天皇(母:藤原順子=五条后)であった。
このようにして承和の変により、平城・淳和の系統は皇位から遠ざかった。
そして、最初の皇后は内親王、という原則も崩れて、皇后をどんどん立てる藤原氏の天下になっていく、のはそれから後のお話。
┌ 51平城天皇 ― 阿保親王 ― 在原業平
50桓武天皇 ―― 52嵯峨天皇 ― 54仁明天皇 ― 55文徳天皇
└ 53淳和天皇 ― 恒貞親王
└ 崇子内親王
なお、源の至も賜姓源氏で、臣下ではあるが、嵯峨の孫である。
つまり、この段に出てくる人物やその背景にいる人達は、骨肉の争いをした高貴な人たちとその子孫で、業平からいえばみな親戚だった。
『続日本後紀』によれば、承和十五年(848;嘉祥元年)五月六日、淳和の第五皇子の四品良貞親王が「俄薨焉」つまり急死している。
続いて同月十五日に、淳和の皇女、崇子内親王が亡くなった。崇子内親王については母橘氏とあるので、立場的にはどうだったのだろうか。
いずれにせよ、承和の変から六年、世間はまだ忘れていないころだ。
亡き淳和や淳和の親王・内親王、承和の変に関係した人々に同情したであろう。仁明も文徳もどんな気分であったか。
この翌年、嘉祥二年正月には廃太子無品恒貞親王が三品に叙されている。在原業平も 同じときに無位から従五位下になっている。
この段はなかなかやっかいな話で、肝心の「ともしけち」が仏教語(法華経)なので意外と訳しにくいし、
第一、後人注に源順が出てくるのがいただけない。源の順(911〜983)は、梨壷の五人の一人、つまり後撰集選者であった。
後世には大変な有名人であるから、説明としてはわかりやすくて良いが、ここに順の名前が出るだけで、ドンと時代が下ってしまうような気持ちになる。
しかも「みこのほいなし」とあって、これがまた意味不明である。
もちろん至が崇子内親王に思いをかけていたなどというふうにとれば、わからなくもないが、
歌の軽妙なやり取りからは、感覚がずれてしまっている。
後人注がいつどういう人物によってつけられたのかはかなり注意を要するのではないだろうか。