春の別れ

 昔、田村の帝(=文徳天皇)と申し上げる帝がいらっしゃった。

その時の女御たかきこ(多賀幾子)と申し上げる(方が)、いらっしゃった。

その方がお亡くなりになって、安祥寺で御法要をした。人々がお供物を差し上げた。

差し上げ集めたもの(は)、千かかえほどあった。たくさんの供物を、木の枝につけて、堂の前に立てたので

山もさらに堂の前に動き出したように、なあ、見えた。

それを、右大将でいらっしゃった藤原のつねゆき(常行)と申し上げる(方が)いらっしゃって、

法会の終わるころに、歌を詠む人々をお呼び集めなさって、今日のご法要を題にして、春の風情のある歌を差し上げさせなさった。

右の馬の頭(みぎのうまのかみ)であった翁が目は違いながら(まちがいながら?)詠んだ。

  山のみなうつりてけふにあふことは 春のわかれをとふとなるべし

  (山が全て移ってきて今日の法事にあうのは、春の別れを弔おうとおいでになったのでしょう)

と詠んだのを、今見ると、よくもなかった。その昔は、これが優れていたのであろうか、ほめたたえたのだった。

伊勢物語 第七十七段 2007年10月27日作成 内田美由紀


かつて、田村の御代のイメージがなくて読んだとき、

「たかきこ」を高子(二条后)と間違えて、第七十六段の次に並べたのかと思った。

それくらい伊勢物語のなかでは、妙に手ごたえのないというか感動の薄い段で、ポイントがどこにあるのかわからない。

1、安祥寺での法事で、多賀幾子へのたくさんのお供えが山のようだった

2、それを仏典をもとに歌に詠み込んだら(謙遜はしているけれども)ほめられた

それだけ?とききかえしたくなるような・・・・・・この物足りなさはなんだろう。

 

田村の帝、文徳天皇は嘉祥三年(850)に位についた。

・・・・・・それから、在原業平は全く昇進しなくなった。(業平の史書への再登場は、清和天皇の貞観四年(862)である。)

文徳天皇の天変地異と疫病の御代は、天安二年(858)八月崩御によって終わりを告げ、幼い清和天皇と摂政良房の時代に入った。

文徳天皇女御、多賀幾子も、文徳天皇崩御と同じ年(858)の十一月に亡くなった。

常行は清和天皇譲位の前年(貞観17年、875)に亡くなったので、この段が史実ならば、清和天皇の御代の話となる。

なお、女御多賀幾子と右大将藤原常行の父は藤原良相で、多賀幾子と常行は兄弟だった。

右大臣藤原良相が、兄の摂政良房をどう思っていたかはさだかではないが、

とりあえず、良相はここぞという実務に名前が出てくるようなタイプであった。

子の常行もそういうやり手の感じに描かれている。ただの法事に終わらせず、世間のうわさになるようなイベントにしている。

つまり、お供えを山のように持ってこさせるように手配し、

法事のあとには、前もって依頼したであろう歌詠みを召し集めて歌を詠ませ、

人々に、立派な法事だったと思われるように演出している。

もちろん、亡き人や残された人の人徳で自然に物も人も集まることもあるかもしれないが、それにしては常行が前に出すぎている。

さて、史実としてみるとき、この法事がいつのことだったか、という問題がある。

何しろ、多賀幾子の亡くなったのが天安二年(858)、旧暦の十一月十四日、つまり冬のことで

この第七十七段の歌は「春の心ばへを題にて」とあるので、

次の第七十八段に「むかし、たかきこと申す女御おはしましけり。うせ給ひて、なゝ七日のみわざ、安祥寺にてしけり」とあることもあり、

普通は、この第七十七段も、なゝ七日すなわち四十九日の法事だと解釈されている。

しかし、常行が右大将になったのは、貞観八年(866)、

翁を業平とした場合、業平が右の馬の頭になったのは41歳で貞観七年(865)だ。

いずれも極官でもない・・・・・・。もちろんこのあたりのことは昔の注釈書にすでに指摘されている。

多賀幾子が亡くなってから、七・八年後の官職で呼ばれているわけで、八年後というのは13回忌には早すぎるような?

いずれにしても、内容が政略的でもあり、年代にアバウトなところは物語的でもあり、何かすっきりしない後味の悪さが残る。

あえていえば、この法事から、歌人業平が公に評価された、ということなのだろうか?

なんだか常行の広告塔にされたような、気がするんだけれども・・・・・・。

  伊勢物語 第七十七段 2007年10月27日作成 内田美由紀