むかし、若い男が(家の侍女の)悪くはない女を好きになった。
利口ぶった親がいて、好きになったら困るといって、この女を他へ追いやろうとした。
そうは言っても、まだ追い出さなかった。
(男は)人の子供なので、まだ心に勢いがなかったので、(女を)留める力がなかった。
女も身分が低かったので抵抗する力がない。
そうしている間に思いは、ますます募ってくる。
急に親がこの女を追い出す。男は血の涙を流したけれども、引き止める方法がない。
(親が女を)連れて出て去ってしまった。男が泣く泣く詠んだ(歌)
いでていなば誰かわかれのかたからむ ありしにまさる今日はかなしも
(出て行ってしまったならば、誰が別れが難しいだろうか、いや難しくはない。
これまであった以上に今日は悲しいよ)
と詠んで、息絶えてしまった。
親はあわててしまった。やはり(息子のことを)思って言ったのだが、
たいしてこんなに(思って)はないだろうと思うのに、本当に息が絶えてしまったので、
うろたえて願を立てたのだった。
今日の日没のころに息絶えて、翌日の午後8時ごろくらいに
ようやく息を吹き返したのだった。
昔の若い人はそのようななかなか多感な物思いをね、したのだったよ。
今の年寄りはどうして(そんなことで)死ぬだろうか、いや死んだりしないね。
※最後の一文は、普通の解釈とは違います。普通は「どうしてそんなことをするだろうか、いやしない」と訳します。
最後の一文「今の翁まさにしなむや」の「しなむや」については、
山本利達先生の『中古文学攷』を参考にさせていただいたが、そのままでは芸がないので、
少し考えてみた。
女への思いが強くて息絶え、息子を思う親の願掛けで生き返った若い男。
「思ひ」が生死を決めたのか、願掛けが効いたのか。
でも、最後の感想めいた文で、親の思いが読者の意識から吹っ飛んでしまう。
「昔の若人」「今の翁」と対句のようになっているが、
「昔の」、「今の」といわなかったほうが本当はわかりやすい。
若い人は一途でこの恋がだめだったら死んでしまうと思いつめる。
去年「ロミオとジュリエット」を脚本の訳とラムの「シェイクスピア物語」の訳で久しぶりに読んで
ジュリエットの年齢設定がめちゃくちゃ若い(13か14歳!)のでびっくりしたが、
シェークスピア劇の女役を少年がしていたとかで制約があるにしても、
ある程度は若くないと話が成り立たないだろう。
年をとっていくと、恋に障害があるとき、悲しいことは悲しいんだけれども、
この恋がだめでもまたいいこともあるわと
少し余裕が出るというか、あきらめというか、
確かにそんなことで死にはしない。
逆に、若い者は若いからこそ一途になって、その懸命さに年配の者は圧倒される。
そして、いつか時がたって、
「昔、若いときは女と別れさせられて死にかけたこともあったんだけれども」というと
「ええっ?!おじいちゃんにも若いときがあったのぉ〜?」
みたいなことを言われるようになった頃には、
今の翁には昔の情熱はない。
・・・・・・と、まあ、このように、訳の最後の2行分のおかげで
素朴な昔話が結構身にしみる嘆老の話になっているわけです。