昔、男が、奈良の京に会い知った人を訪ねに行ったが、
(平安京の)友達の元に消息を書いて、恨んで手紙を送ってきた人に(歌を贈った)
春の日の至り至らぬ里はあらじ 咲ける咲かざる花のみゆらん
(春の日が届く里届かない里があるからではないだろう
咲いた花咲かない花が見えるのはどうしてだろうか
―私の愛情が届く里、届かない里があるからではないでしょう
ニッコリしてくれる方、笑ってくれない方がいらっしゃるのはなぜでしょうか― )
訳の底本は大島本付載小式部内侍本によった。
定家本などの普通本にないこの段は、各本で異同があって、話がとてもわかりにくい。
「咲」を万葉集では「ゑむ(笑む)」と読む例があるので、歌の意味はすぐにわかったが、
人間関係が、最初、さっぱりわからなかった。
大学の授業で、先生が教えてくださったのは、
「この人は友達の家にいる人だろう。例えば、紀有常の女(むすめ)など」
ということだった。
男には、友達の家に妻にした女がいて、友達のむすめか、同母妹かであろう。
つまり男は友達の家に通っているのだけれど、
今、奈良の都にきて、「最近○○しています」と舅(友達)に報告がてら、ご機嫌ななめの妻に
歌を贈ったということになる。
平安時代は通い婚だったし、法律は一夫一婦制だったようだが実際には一夫多妻だったので、
妻妾達は、自分のところに来ない夫がどこにいて、何をしているか、噂で聞いたりするはめになって、
例えば、蜻蛉日記作者の右大将道綱の母などは非常に苦しんだようだ。
ここでは女は奈良に行ってしまって自分のところに来ない男を恨んで、手紙をよこしたのであろう。
ところが男の返歌は、男の本心かもしれないが、別にボクは悪くないですよ、と自己防衛に固まっている。
「私が行っても行かなくてもニッコリ迎えてくれる女もいるのに、
どうして貴女は笑ってくださらないのですか?」
女の保護者である友達は、この歌を見れば、通ってこない男を非難する前に
「咲かざる(笑わないの)は、やはり具合悪いよ」と言うはめになるだろう。
でも女は、男が自分のところに来てくれないから恨んでいるので、
この歌は逆効果で、女は大逆上したに違いない。
というわけ。
嫉妬の無い愛情はないというけれど。男女の仲って難しい・・・。
伊勢物語 2002年1月14日作成