昔、男が女を盗んで行く道で、
水のある所で
「飲みたい?」と尋ねるとうなづいたので、
手に汲んで(女に)飲ませた。
さて、(女を)連れて(都に)上った。
男が亡くなったので、元の所へ帰っていくときに
あの水を飲んだところで(女が詠んだ)
大原やせかゐの水をむすびつつ 飽くやと問ひし人はいづらは
(大原のなぁ せか井の水を手に汲みながら もういいかいと尋ねた人はどこへいったの)

女はさらわれたのだろうか、示し合わせて出たのであろうか。
男の愛情は、自分の手に汲んで女に飲ませたというところに出ている。
「飲め!」と言ったわけでもなく、「自分で飲んだら?」と言ったわけでもない。
相手の手から水を飲んだ女も、それなりに男の愛情を受け入れている。
だから、男が亡くなって、元のところへ帰るとき
(いくら盗まれた女でも帰るのにいくぶん葛藤もあると思うが、書いていない)
男の愛情を懐かしんで歌を詠む。
男の人は自分の恋人に手づから食べ物や飲み物を与えるのが好きなのではないだろうか?
映画で、ある部族では、男の食べさしを、女が男の手から食べたら結婚を承諾したことになるというのを見たことがあるが、確かに他人の食べさしは嫌だし、相手の手からというのは抵抗がある。
恋人でも、女性は最初ちょっとおっかなびっくりではないかしら。
伝本によっては「つきなども具せざりければ(杯なども持っていなかったので)」と説明しているのもあるが、蛇足だと思う。好きな相手だったら、杯を持っていたって、手から飲ませたんじゃないかな?
ところで、歌に「おおはらやせかゐの水」とあるが、大原とはどこだろうか?
大原は、京都に二か所あるが、洛北の奥座敷の大原は平家物語の大原御幸で有名だけれど、平安時代の早い時代にはでてこなくて、もう一つの洛西の郊外の大原野のほうだろうと言われている。
ところが、あるとき、新聞の発掘記事を見て、はっとした。そこにもう一つ大原があった。
高槻・梶原南遺跡
その記事(1996年10月31日付朝日新聞)によれば、
大原駅は山陽道上に和銅4(711)年に設置された六つの駅家(うまや)の一つで、
中央からの役人が平城京−大宰府往復の際、馬を換えた場所とされ、
当時の淀川渡河地点の一つだということである。
ずっと不思議だったのが、これで氷解した。
洛西の大原野だったら、どこからどの都に上ったのか。大原野に隠れ住むならまだわかる。
この大原駅なら、都(と言っても奈良の京だが)に上る街道の途中だ。
しかも「せかい」は現在は普通「清和井」と当てるが、
真名本(漢字ばかりで書かれた伝本)には「堰之志水」とある。
「せかい」は「瀬が井」か?
しかも高槻の梶原南には井尻という町名まであって、なんともぴったり。
ともあれ、大原がどこにせよ、たとえ好きな人でなくっても
ついこの間までいた身近な人がもういないというのはとても不思議なことだ。
どこへ行ってしまったのだろう。
どうして人は死んでしまうのだろう。
そんなことは理屈ではわかっているんだけれども、納得がいかないのが人の常かも。