昔、男、女をひどく恨んで
岩根踏み 重なる山にあらねども あはぬ日多く 恋ひわたるかな
(岩根を踏み 重なっている山ではないけれども
逢わない日が多くて ずっと恋いつづけていることだよ)
重なる山、「女を恨んで」という以上、また諸本「重なる山はへだてねど」とあって、
重なる山々のような距離はなくても、女の側の隔てなどの障害が多くて逢えないというのだけれど、
なぜかとても好きな段だ。
昔、小学校のとき国語の教科書の冒頭の詩で、誰の詩か忘れてしまったけれど、
少女がただ青いだけの絵を描いていて、
作者が尋ねると少女は青い山々と空を描いていると答えたという内容の詩があった。
青い青い遠い山々、そしてその向こうの青い空
それは憧れでもあり、遠い夢でもあり、世界でもあり、いつまでも続くような永遠の時間でもある。
何かそれを超えてずっと恋い慕ってくれているような気持ちになる。
以前、吉野山を描いたシルクスクリーンを持っていた。
なぜか実景とは思えなかったが、前景に満開の桜、中景に山の中にちらほら見える山桜
遠景に青い山々が夢のように重なっていた。
気持ちをそのずっと続く山々に飛ばしながら、よくぼーっとしていたものだ。
あるとき、和漢朗詠集を見ていて、
月重山に隠れぬれば 扇をあげてこれに喩ふ
風大虚に息みぬれば 樹を動かしてこれを教ふ
という句が気になった。「重なる山」だ。しかも扇をあげて?
源氏物語の橋姫の有名な場面で撥で月を招くシーンがあって、中の君が
「扇ならで、これしても月は招きつべかりけり」というが、出典がわかっていない(はずだ)。
しかし、和漢朗詠では仏典の摩訶止観の句として、「月」=真理、「重山」=本能欲望の迷い
とする。
宇治十帖にはなかなか象徴的な興味深い解説だが、伊勢物語にはどうだろう。
伊勢物語のこの歌には出典があり、万葉集の歌だ。万葉2422
石根踏 重成山 雖不有 不相日数 恋度鴨
(いはねふみ かさなるやまは あらねども あはぬひまねみ こひわたるかも)
本能欲望の迷いはないけれども、逢わない日が多いので ずっと恋い慕っていることだよ。(?)
・・・・・・恋って仏教的には本能欲望の迷いだから、摩訶止観で説明するのはなんだかちょっと変ですよね。残念。