昔、男がいた。とてもまじめで、実直で、いい加減な気持ちがなかった。
深草のみかど(仁明天皇)になあ、お仕え申し上げていた。
心得違いをしたのだろうか、皇子達のお使いになっていた人を
逢って求婚した。さて、
寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば いやはかなにもなりまさるかな
(寝た夜の夢が儚いので、まどろむと、ますますさらに儚くなってしまったよ)
と詠んで送った。そういう歌の見苦しいことよ。
(定家本による)
古今集にある業平の歌の歌語りだが、こんなに短い段なのに、他の本で結構こまごまと異同がある。
たとえば、「じちよう(実用)にて」はどうも注が入り込んだようだ。「実用」は漢語だし、
実際、「まめに」だけで十分だ。「じちように」がない本もある。
「・・・をあひいへりけり」も、定家本では普通の言い回しだが(第四十二段・第八十六段)、他の本では違う。
ここでも、「あひはべりけり」(大島本・阿波国文庫本)。
段末の「さる歌のきたなげさよ」も、他本にない。大島本では「五条のきさきとぞ」とあるが、次の段の注かもしれない。
どちらにしても、一緒に寝たのは寝たようだが、どうもあんまり守備がよくなかったようで、
はかなくて、消えそうな思いであるようだ。
相手はあまり乗り気ではなかったのだろうか。なんだかむなしい・・・・・・。
見た目の人間関係の状況は、少し源氏物語の朧月夜の君に似ている。
光源氏はそのあと、須磨へ流離する。
業平がどうしたかはよくわからない。布引の滝には行ったかもしれないが。
少なくとも、仁明天皇の皇子、文徳天皇は業平を全く昇進させる気がなかったようだ。
しかし、それをいうなら、平城天皇の子孫は一度はみな同じような目にあっている。
なお、光源氏のように須磨へ行ったらしいのは、
業平の兄・行平のほうで、「もしほたれつつわぶと答へよ」だし、
因幡守になっても「立ち別れ因幡の山の峰におふるまつとしきかば今かへりこむ」と、あまり有難そうではない。
史書によれば、地震・雷・疫病等々が続いたのち、平城天皇の孫達は、次第に復権して行った。
光源氏もそうだから、紫式部が「日本紀の御局」と呼ばれる所以はこのへんからきているのだろう。