昔、男女がいた。どうしたのであろうか、例の男は(女と別れて女の家に)住まなくなってしまった。
後に、(女には別の)夫がいたが、子がいる仲であったので、念入りでこそなかったけれども、時々ものを言って寄越した。
女のほうに、(女が)絵を描く人であったので、描きに遣ったが、
「今の夫が来ています」といって一日二日寄越してこなかった。
例の男、
「とても冷たくて、自分が申し上げることを(いままで)して下さらないので、道理とは思うが、やはり人を当然恨んでしまうものだ」と
嘲笑して、詠んで送った。時は秋であった。
秋の夜は春日わするゝものなれや かすみにきりやたちまさるらん
(秋の夜は春の日を忘れるものなのだね だから、霞に霧が立ち勝っているのだろうか
――今の男が来ている夜は私との日々を忘れるものなのだね、だから、私より今の男が勝っているのだろうか)
返し、女
千々の春一つの秋にまさらめや 紅葉も花もともにこそちれ
(いくつもの春の日々が一つの秋に勝るでしょうか、だから紅葉も花もどちらも散るのです
――あなたとの日々は一つの飽きに勝るでしょうか、だから、秋がくれば春に芽生えた思い出も散り去るのです)
女の歌は、大島本と定家本とで春・秋がひっくり返っている。
定家本だと「千々の秋ひとつの春にむかはめや もみぢも花もともにこそちれ 」とあるが、
已然形+「や」が条件句を構成するならば、下の句の内容がそれに対応しない。
幾千もの秋は春に対抗できるでしょうか、だから紅葉も花もどちらも散るのです(?????)
これは、「昔男」が春に例えられているので、「昔男」が他の男に負けるなんてありえないと思ったのかもしれないし、
定家本には「立ち勝る」を「ちへまさる」と書いている本もあり、定家本にも誤写がないとはいえず、
千々に紅葉が乱れ散る秋、というイメージからの誤写かもしれない。
もちろん、大島本にも誤写があって、「きこゆることをはまゝて」と書いている。「い」を「は(八)」と間違えて、さらに転写されたようだ。
おまけに、紅葉が秋の景物なので、女の歌はやはり訳しにくい。
しかし、女の心情としては、大島本の「千々の春、一つの秋にまさらめや」のほうが理解しやすいのでは。
蜻蛉日記で、来なくなった兼家から頼まれた仕事を道綱母がすげなく返すところや、
大和物語第百六十段で、染殿の内侍が業平の洗濯物を断るところなど、
来なくなっておいて、それはそうなっても仕方ないでしょ?
女だったら、自分が振った相手には意地でも用事を頼まないし頼めないと思うけれど、
男の人って、自分が振った相手に、なんで頼むのかな?身勝手?
・・・・・・というか、甘えん坊なのね。
ま、男の人は、自分を振った相手に、用事は意地でも頼まないでしょうけれども。
伊勢物語 第九十四段(大島本) 2007年1月4日作成 内田美由紀