平安時代の大阪への旅行の記録を見ていると、「くま河」(「熊川」)が出てきます。
岩波の『日本古典文学大系 栄華物語』頭注では「くま河」を未詳としていますが、
『(大阪)東区史』では「くま河はこま川で、巨麻川は「大阪市史」等に言ふ狭山池西除川で、
新大和川開通までは依羅池に通じ住吉神域に達するものであつた」とあります。
つまり、今の駒川です。なお、現代の「駒川」は川と町と両方の名前であるのですが、
過去の「熊川」の例は、川の名とも地名とも、どちらにでも取れます。
川の名前としては、時代が下るにつれ、「御熊川」「猫間川」と表記されているようです。
(ちなみに、『東区史』の古地図では、「狭山川」と書かれています。)
『栄華物語』の長元四年九月の彰子住吉・石清水行啓 旅程
| 日時 | 場所 | 出来事 |
| 九月二十五日午の時
(午前12時ごろ) |
御所 | 出でさせ給。 |
| 賀茂川尻といふ所 | 御船に奉る。 | |
| 戌亥の時ばかり
(午後8〜10時頃) |
山崎といふ所
〜石清水 |
着かせ給て、ものなど参らせて後に、石清水に上らせ給。 |
| 暁方 | (石清水〜山崎) | 御経供養じ奉り給。
・・・その後船に帰らせ給。 |
| 二十六日 | (山崎) | 漕ぎ下らせ給。 |
| 三島江といふ所 | 内の使に資房の中将、東宮の御使良頼の少将参りあひたり。 | |
| 江口といふ所 | 遊女ども、傘に月を出し、螺鈿・蒔絵、さまざまに劣らじ負けじと参りたり。 | |
| 二十七日 | 津の国 | 津の国に着かせ給て |
| くま河 | やがてくま河に着かせ給。 | |
| 二十八日つとめて | 住吉 | 住吉に着かせ給。
殿・内の大殿など皆御馬にてえもいわれぬ御装束奉りて候はせ給。 御祓、社に詣でさせ給 |
| 酉の時ばかり(午後6時頃) | 天王寺 | 天王寺の西の大門に御車とどめて、波の際なきに西陽の入りゆく折りしも、拝ませ給。 |
| 二十九日 | 亀井の水のもと | (詠歌) |
| 帰らせ給浜道 | 競べ馬などするさへおかし。 | |
| 難波といふ所 | 御祓あり。・・・御船に奉りて | |
| 川尻 | 着かせ給て | |
| 十月一日午の時ばかりに | (川尻) | 雨ふりて雷(かみ)鳴れば |
| 二日 | 天の河といふ所 | とどまらせ給て、遊女ども召して、日うち暮るるほどに歌読ませ給。 |
| 丑の時ばかりに | ? | 御船より下りさせ給て上らせ給へば |
| 暁方 | 都 | おはしまし着かせ給へば、 |
熊川に着いた翌朝、殿方は騎馬で住吉に着いているので、
熊川からは陸行したのではないでしょうか。
おそらく、熊川で船中泊、ないしは下船して山坂神社(東区史の古地図の「東田辺」とある神社)あたりに泊まったのでしょう。
この行啓では、石清水には夜に(石清水の祭礼はなぜか夜中)、
住吉神社には早朝(清々しい感じがします)、
四天王寺には夕暮れに着く(西門から西方浄土ということで夕陽を拝む)ようにしてあって、
それぞれの名所に相応しい旅程が設定されていて、なかなかの名プロデューサーがいたようです。