5、大阪にある地名 百済
5、大阪にある地名 百済
桑津(くわづ)・杭全(くまた)と駒川が交差するあたり、バス停の名前は「百済(くだら)」です。
JR大和路線の駅に「東部市場前駅」がありますが、その駅前交差点は「百済駅前」です。
「東部市場前駅」横にある、JRの貨物駅名が「百済貨物駅」(東住吉区今林)です。
東区史の古地図では、現在「百済」であるところの、
狭山川(今の駒川)と平野(ひらの)川が合流する所に「百済郡」と書かれています。
ただし、東区史の古地図には他にも、百済とあるところがあります。拡大図(但し、下の方)
「船場」の下(方角では西)に、「百済(クダラ)」「安良(アラ)*」と振り仮名付きで書いてあります。
「久太郎町」(現・中央区)の名前の由来は、「くだら」を一字一音表記したのが元だと言われています。
(*ちなみに「安良」は古代朝鮮にあった小国「安羅」からきているのでしょう。
「安良」を教えてくださった日本史のO先生に感謝。)
百済郡はいつからのものかよくわからないので、とりあえず「郡」について調べると
天智三年(664)以前に「五十戸」を一つの行政単位としていて、689年の浄御原令では「評」と表記し、
「郡」は大宝令(701年施行)以降(『古代を考える 難波』直木孝次郎氏編)ということです。
ただし、日本書紀は後から書かれたものなので、
かなり古い時代から「郡」とあります(例えば雄略紀9年に「三島郡藍原」)。
「百済郡」の古い用例としては、長屋王邸跡から出た木簡があり、
霊亀元年(715)の物と考えられるということです(『古代を考える 難波』p192)。
古代の難波には、西成郡・東成郡(東生郡)・住吉郡・百済郡がありました(『古代を考える 難波』p186〜193)。
百済からの渡来人が多かったために百済郡ができたようです。
この地で洪水が起こって、百済王氏は、百済王敬福の時に枚方・交野へ移住し、
「百済郡」はいつのまにか姿を消しました。
百済寺跡と並んで、枚方市中宮西之町にあります。
『大阪府の歴史散歩下』には「この百済寺は、百済滅亡時わが国に亡命した百済王氏という渡来系氏族の氏寺で、
氏神である百済神社と東西に並び立つのは、寝屋川市にある高宮廃寺と同じく珍しい例とされている」とあります。
(が、この間、藤井寺に行くと、葛井寺(ふじいでら)と辛国神社も東西に並んでいました。・・・これも珍しい例?)
百済寺は、先日奈良で大塔基壇が発掘された大安寺(百済大寺)が有名だったようで、
「百済寺(くだらでら)」で辞書(小学館の日本国語大辞典)を引くと、
弘仁14年(823)に空海が大安寺(百済大寺)をしのび、その跡に建てた
奈良県北葛城郡広陵町にある高野山真言宗の寺が一番目に出てきます。
摂津国百済郡にも「百済寺」がかつてあり、白鳳期の瓦が出る堂ヶ芝廃寺がそれではないかと言われています。
東区史の古地図にも「百済寺」が四天王寺の東に書かれています。
百済王氏は奈良時代にさらに枚方・交野に移住して、そこにも百済寺を建てましたが、
この百済寺は平安中期に焼けてなくなり、今、発掘されて史跡公園(3の百済寺跡)になっています。
百済は4世紀頃起こって、7世紀660年に滅びた朝鮮半島の中の一国です。
この当時、朝鮮半島の国は他に加耶・高句麗・新羅がありましたが、古代の日本は百済を支援していました。
「百済」を本来「くだら」とは読まないので、なぜ日本で「くだら」と読むかについては、諸説あるようです。
次の説明が一番わかりやすかったので挙げておきます。
『三国史記』によると、始祖の温祚王が扶余から南下したとき10人の家臣が随行し、
百姓も喜んで彼に従ったので、漢江の南の慰礼城を都に定めたという。そして、10人の家臣が彼を補佐したので
国号を「十済」としたが、のちに百姓が喜んで従ったことがたいせつだとして、「百済」にあらためたと記されている。
しかし、馬韓五十余国のなかの「伯済」に由来するとみなすのが通説で、百済も伯済もペクチェである。
それを日本では「クダラ」と訓む。それについてはさまざまな説があるが、私は「大国」という意味に由来するという
軽部慈恩説(『百済美術』宝霊堂、1946年)をとりたい。すなわち、伯字にはク(Khu)という訓があって、伯父とか伯家
という用例がある。伯父とは一番上の長兄、「大きな兄」のことであり、伯家は一族の宗家・大家(クンチプ)の
意味に使われる。クは「大きな」という意味を持つ。
済には、ナル(渡船場)、ナラ(国)という意味があって、ナラはタラに通音する。そうして、伯(百)済は
「クンナラ」(大国・本国)、あるいは「タンダラ」と訓まれ、のち「クダラ」になまったというのである。
『韓国の古都を行く 増補新版』李進熙氏
「済」を「わたり」と読んでいる例が日本書紀にあります。
「穴門より向津野大済に至るを東門となし、名籠屋大済を以て西門となす」(仲哀紀8年)、「葉済」(仁徳紀30年)。
後世、「国府大渡のもと」とある、大渡の「渡し」と同じ意味でしょう。
なお、ナルが渡船場の意とありますが、
日本書紀の雄略紀二十一年、百済の都の「熊津」を「久麻那利」と読んでいるので、
「津」を当時「ナリ」と読んでいたことがわかります。
(それでいうと、ひがしなり・にしなりは、東の津、西の津ってことでしょうか?河内湖の時代なら、ぴったりですね)