当HPにおいては掲示板が開設されてからいろいろな質問が舞い込むようになりました。
すぐ答えられるものもありますが、質問されてから調べたこともありました。
知らないことは無限大にあり、
本当に学問は広く深いと思い知らされます。
学問の海の浜辺に座って、きれいな石を見つけて喜んでいる気分です。
ここには、いくつか質問を再録し、返答は一部編集しました。
筒井筒では、奈良から生駒山を越えて高安の梅野のもとに通ったとありますが、そのころの業平の奈良の家とは、どこですか。
高校の先生が、当時は後朝の別れといって、朝になると男が帰っていくと言われていましたが、奈良から八尾まで簡単に通えるのでしょうか。
返答1の1
本文に「かうち(河内)の国、高安の郡」とあって「梅野」とは伊勢物語には書いてないのですが、何の説でしょうか?
筒井筒はほぼ同じ話が、大和物語にありますが、そこでは「むかし、大和の国、葛城の郡にすむ男女ありけり」となっています。そちらが本当のところではと思います。
百歩譲って、業平が奈良から通っていたとすれば、奈良の実家近くの女の家から(幼馴染だから)ですので・・・平城京の中ではないでしょうか。一応、不退寺(業平寺)も考えてもいいですが、遠いですね。
なお、不退寺のHPはリンクしています。また、奈良国立文化財研究所の「平城京再現」によれば、不退寺は平城京の中にあります。一条大路北です。そこからだったら
1、三条大路に出て、暗越奈良街道で山越えし、山に沿って南下する。
2、日下直越道で山越えし、南下。
3、(龍田川を越えて)大和川の北で山越え。(龍田越え)
馬を走らせれば、不可能ではないと思いますが、ちょっと大変そうですね。
今なら高速があるから、奈良ナンバーの車が難波辺りで「ドライブいけへんか?」とナンパしていたりするそうです(主人・談)が。
質問1の2
不退寺が業平寺と言うのですね。
我が校の国語の先生に尋ねてみました。
・梅野について
能の「井筒」によると高安の茶屋で福屋の娘が梅野で、業平は八百回、梅野のもとに通ったそうです。
この数字からして、「井筒」は嘘くさいですね。
・業平寺について
その高校の先生は、不退寺は確かに業平寺であるが、天理市にある在原寺周辺に、業平の姿見の井戸跡があることから、井筒の奈良の舞台はそちらではないか、と言われていました。
この説について内田さんはどう思われますか。
返答1の2
・梅野について
幽玄能の井筒に梅野なんてでてきたかしら、と思ったのですが、なにしろ15年前に友人のお仕舞の井筒を見たっきりなので(諸国一見の僧にて候、機会があったら見てください。)学校で本を見てきましたが、梅野はやはりありませんでした。 日本古典文学大系「謡曲集 上」でお確かめください。 「茶屋」がでてくるあたり、江戸時代の話では、と思います。(後日確認…『河内名所図会』に載ってました。)
・業平寺について
謡曲には天理の在原寺がでてきますが、どうやら初出が玉葉(1312 成立)のようなので、ちょっと時代が下りすぎてますね。名古屋の南の知立市に片桐先生や青木賜鶴子先輩達と行ったとき(これも15年前ですが)も、鎌倉時代の街道に沿って業平の墓とか業平の相手の姫ゆかりの井戸だとかがありましたので、その類(鎌倉時代の街道沿いの観光名所)というおそれがあります。
質問2
在原業平とは都鳥に出てくる人でしょうか。
東京の業平橋の由来に関する事で、この人が東下りをした時の話だと記憶しているのですが、同一人物でしょうか。
実は、私の住む埼玉県春日部市にも業平ゆかりの地があり、都鳥の舞台と言われています。
ただ、この話もあまり確かでは有りません。業平と名前の付く人はもっと他にもいるのでしょうか。
返答2
> 在原業平とは都鳥に出てくる人でしょうか。
一般的には、そのとおりです。ただし、実在の業平が東下りをしたかどうかは不明です。
> 東京の業平橋の由来に関する事で、この人が東下りをした時の話だと記憶しているのですが、同一人物でしょうか。
伝説としてはそのとおりです。
> 実は、私の住む埼玉県春日部市にも業平ゆかりの地があり、都鳥の舞台と言われています。
関東のことは疎いので、詳しく教えていただけるとうれしいです。
> ただ、この話もあまり確かでは有りません。業平と名前の付く人はもっと他にもいるのでしょうか。
ほかには多分いないとおもいます。業平は有名過ぎて、あちこちに名所旧跡があります。名古屋の方で旧鎌倉街道沿いに業平関係の旧跡が並んでいるところがあります。そこは、かきつばたの名所です。
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