昔、たかきこ(多賀幾子)と申し上げる女御がいらっしゃった。
お亡くなりになって、四十九日の法事を安祥寺で行った。
右大将藤原の常行という人がいらっしゃった。その御法事においでになって帰りに
山科の禅師の皇子(人康親王:さねやすしんのう)がいらっしゃいます、その山科の宮に、
滝を落とし、水を走らせなどして、趣深く(庭を)お造りになっているところに、
(常行は)おいでになって
「数年来、遠くではお仕えもうしあげたが、近くにはまだお仕え申し上げておりません。
今晩は、ここにお仕えもうしあげましょう」と、(禅師の皇子に)申し上げなさった。
皇子は、お喜びになって、御寝所の準備をさせなさった。
ところが、あの大将は、出て、工夫なさる(たばかる:だますの意味もある)ことには、
「宮仕えの始めに、まったく何もしないでいるべきだろうか、いやそんなことはない。
三条の大行幸をしたとき、紀伊の国の千里の浜にあった、とても趣深い石を差し上げた。
大行幸の後、差し上げたので、ある人の御部屋の前の溝に据えておいたのを、
庭園をお好みになる主君である。この石をさしあげよう」とおっしゃって
御随人(みずいじん:従者)や舎人(とねり:官給のボディガード)に、取りにいかせた。
それほどたたないうちに、持ってきた。
この石は、聞いていたよりも、見るほうが、勝っていた。
「これを、普通に差し上げたならば、きっとつまらないでしょう」と言って、
人々に歌を詠ませなさった。
右馬頭であった人の(歌)をなぁ、青い苔を刻んで、蒔絵のかたに、この歌をつけて奉った。
あかねども岩にぞ換ふる 色みえぬ心を見せむよしのなければ
(満足しないけれども、岩に引き換えました。色の見えない心を見せるような方法がないので)
と詠んだのであった。
伊勢物語 第七十八段 2007年11月16日作成 内田美由紀
まったく、何を”謀(たばか)った”のか知らないが、大学で習ったときから???の困った話だった。
何が???かというと、年代。
安祥寺でのたかきこの四十九日の法事が天安三年(859)一月頃、
常行が右大将になったのは、貞観八年(866)、
山科の禅師の皇子・人康親王が出家したのは、貞観元年(859)五月、
右大将常行や禅師の皇子は、後の呼称としても、
一番よろしくないのが、三条の大行幸で、
常行の父・右大臣藤原良相の西三条の百花亭に、清和天皇が行幸したのだが、
三条の大行幸は貞観八年(866)のことである。(と片桐先生に習った。本に書き込んでいる)
この石はどうなったのやら。百花亭→山科の宮なら、三条の大行幸の後の話で、年代的にたかきこの四十九日は関係なくなるし、
山科の宮→百花亭ならば、山科の宮が、良相か常行に石を返したことになってしまう。
全くどこまでが本当でどこからが虚構なのか?四十九日の法事の帰りでなければ、まあ、問題は解決・・・・・・?
右馬頭の歌が素敵なので許してしまおう。なぜ鮮やかな感じがするのかと思えば、
”青き”苔、「あかねども」の中に”茜”、蒔絵といえば普通は”黒”地に”金”・・・・・・。
さて、島好み給ふ君なり、とある。
仙人の住む蓬莱島を模して庭を作ったりした源流があるので、
日本庭園は池があって、島があって、山もあり、滝を落とし・・・・・・、
ミニチュアの自然がそこに出現する。
いまでも各地に大名庭園や寺社の庭があり、平安の庭園の名残を感じることがある。
もちろん、若干後の時代のものも混じるが。住吉神社の太鼓橋とか。
でも、かきつばたを植えて、稲妻型というかジグザグに曲がった「八橋」を渡すのは、日本庭園のお約束。
広島の縮景園も好きだったが(滝のための水利施設を見た記憶がある)、
去年行った、名古屋の徳川美術館の庭園がとても素敵だった。
滝も二種類あったし、山の中で対岸の滝を楽しんだり、
あるいは滝の横の小道を、しぶきと涼やかな風を味わいながら登ったり、
池のほとり、浜辺では大坂の昔の船着場みたいな石畳と住吉のに似た石灯籠、
そして、なんといっても、お茶室。小山を登って、萩の回廊を抜け、ししおどしの音を聴き、つくばいで手を清め、
待合に座って、薄(ススキ)と空とビルしか見えないので「?」と思ったら、
ビルがなければ、薄の間から満月がゆっくり顔をみせるのだろう。
萩だったか、牡丹園があるので、中国風だなあと思ったら、案の定、中国風の観月の高殿があった。
舟にも乗るようになっていたようだったが、少し荒れていた。武ばった感じで、今となっては異国情緒がありすぎるのだろうか?
日本庭園のほうが、特に大名庭園などの回遊式庭園は、ちょっとした遠足をしながら日本全国の名所をめぐるようで楽しい。
まあ、でも大自然の中、例えば吉野に行って、山歩きをして、流れる雲を眺め、山桜を見るのには負けるかもしれないけれども。
伊勢物語 第七十八段 2007年11月16日作成 内田美由紀