四十の賀(堀河の大臣:藤原基経)

昔、堀河の大臣(おほいまうちきみ)と申し上げる(方が)、いらっしゃった。

四十のお祝いを、九条の家でなさった日、中将であった翁(が詠んだ歌)

桜花散り交ひ曇れ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに

― 桜花よ、散り乱れて視界が曇るほどになれ 老いらく(の神)がくるという道がわからなくなるように ー

伊勢物語 第 九十七段 2008年11月25日作成 内田美由紀


研究発表(2008年11月22日立命館大学)が終わって、さて、何を書こうかと思ったとき、

せっかく歴史的人物を散々調べたのだから、関係者について記憶が新しい間に書こうと思い立った。

 

この段は、貞観十七年(875)の桜の散る季節の話なので、

第七十七段第七十八段に登場する右大将常行が二月に亡くなった年で、

「桜花散り交曇れ」だから、その翌月くらいの話ではなかろうか。

「中将なりける翁」は古今集賀歌でも、業平のことと確認できるし、また、

在原業平はこの年の一月、右近衛権中将になったことが日本三代実録に記されている。

 

片桐先生から授業で習ったときは、

「桜花散り交ひ曇れ!」と人々をぎょっと驚かせておいて(この当時においても散るは死ぬに通じていたから)

「老いらくの神が道に迷うように」と下の句で、理由を鮮やかに述べて、人々をあっと言わせたのだ、

というようなお話だったと思う。

最初に講読か概論で聞いたのが、かなり昔(25年前・・・ぐらい?)で、その上に同じ話を

別の講演でも聞いているので一言一句正確かといわれると自信がない(笑)。

業平歌は、その鮮やかさとともに、はっとするような、時の権力者への反逆児的な抵抗を感じる。

普通はその反抗は、第五段・第六段の後注に絡めて、二条の后とともに説明されるが、

第七十七段第七十八段を調べた後では、なんとなくそれでは物足りない。

 

貞観八年までは常行は、基経のライバルといっても差し支えなかった。

三条の大行幸(常行の父藤原良相の西京三条第への行幸)は文人40名も揃え「百花亭詩」を賦し女楽も催し、

「有専房之寵」と日本三代実録に評された清和女御・多美子を擁して、良相・常行父子はどうも派手にやり過ぎたようだ。

閏三月一日には、基経の養父・太政大臣良房の東京染井殿第へ行幸があったものの、

「覧耕田農夫田婦。雑楽皆作」では雅ではない上、文人は数名で「落花無数雪詩」を賦したのでは、

百花亭にくらべ、見劣りする。

そして、閏三月十日、応天門の変が起こり、右大臣良相はうまく処理できず、太政大臣良房と基経が活躍し、

基経は参議から中納言になった。

右大臣正二位良相左近衛大将は辞表を出したが、許されず、左近衛大将だけ取り上げられ、

右近衛大将氏宗が左近衛大将になり、玉突きで、参議常行が右近衛大将になったのは十二月十六日、

基経の姉妹の高子(二条の后)が女御となったのは十二月二十七日である。

貞観九年に良相は薨じた。

あとは、貞観十年十二月に高子が貞明親王(のちの陽成天皇)を生み、翌年二月には立太子して、

良房と基経の天下となっていったのは説明するまでもないだろう。

常行は大納言が極官で終わった。

 

応天門の変の原因は、現代の歴史家でもはっきりとした結論がでていない問題だが、

閨閥人事の面からいえば、はっきり結果はでている。

当時の人も、おそらく業平も、応天門の変について疑惑を感じていただろう。

 

基経四十の賀のとき、良相はもちろん常行も良房もすでに世になく、左大臣源融と右大臣基経の天下の盛りなのだが、

はたして、基経の九条の家に四十の賀のとき、散る桜はあったのだろうか?

もしなかったら、「落花無数雪詩」を思い出させる、ものすごい皮肉になっていただろうと思う。

親の代からいろいろ苦労した在原業平は、散る桜がない所で「桜花散り交ひ曇れ」などと詠んだりするような、

そんな危ない真似は決してしなかっただろうが。

伊勢物語 第 九十七段 2008年11月25日作成 内田美由紀