日記と物語

伊勢物語は、源氏物語の中で「在中将の日記」などと呼ばれて、

後世、業平の日記として読まれたにもかかわらず、日記としてはおかしいところがあることは

平安末ぐらいから知られていました(死後の話が入っているのです)。

 

物語は、天から天人が下ってきたり(竹取)、神が姿を現したり(伊勢)と、なんでもありですが、

日記は、事実を書くのが本来ですし(「君子は怪・力・乱・神を語らず」ですものね)、

本当に当人が書いた場合には、書きたくないことや具合の悪いことはなるべく書かないようにするものの、

実際とは違うふりをして書くというのは、かなり難しいと思います。

例えば、土佐日記、筆者は女のフリをしていますが、どうもうまくいってません(わざと?)。

また、以前、あるサイトの日記で、主宰者が自分の素性を明かしていないときに、

そのサイトの掲示板に「サイトマスター、あなたは○○の関係にお勤めの○○才ぐらいの男性でしょう」

なんて他の人から書き込みされて、

主宰者が「何でわかったんですか?隠していたのに」と返答したのを見たことがあります。

でも本人は隠しても、他人が読めばすぐわかるんですよね。

毎日の思いを書く日記では、知らないうちに書き手の立場や趣味・嗜好や判断がでてしまい、

驚いたこと、悲しんだことなどを書くときに、たとえ多少大げさに書いたり控えめに書いたりしたとしても、

それを経験していない他人から見れば、そんなことあるかしらと思いながら斟酌して読むので、

よほど奇異なことで他人が理解できない場合を除けば、事実からそれほど大きな誤差は出ないし、

その事柄に関するその人の語り方で、他人は客観的に「この人はこんな人」とわかるようです。

そもそも、日記や日誌は毎日書いているうちに、自己イメージを飾ることを忘れて

良いように見られたいということすら、日常の怒りなどの感情の中で簡単に忘れます。

 広い世の中には嘘八百、創作する人もあるそうですが、

それは最初から別の人になりきって物語を書いているわけで、例えて言えば、

アメリカ映画によくある、ウエイトレスが富豪の娘に化けて、バカンスを過ごす、などというノリで、

日常的に虚構の人物として過ごしていることになり、他人から見たら何か変で、

知っている人から見ればどこか破綻してとても可笑しい姿です。

だから、日記と物語とではどこが違うかというと、

やはり書き手の立場と主人公の立場との整合性なのだろうと思います。

「われと等しき人しなければ(私と同じ人はいないから)」ですね。

伊勢物語 2003年6月14日作成 内田 美由紀